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「はあ……つい逃げちまったけど……どうすっかなあ……」 口悪く呟いたは、飛び石の並んだ水池のほとりでしゃがみこむ。 四人で力を合わせて――跡部の力を借りているが――生きていくと決めたのだ。だから、説明は不要だと思っていた。 ここは漫画の世界で、自分たちは別の世界からやってきた。そんなこと、言ったところで、頭がおかしいと思われるだけだ。 「跡部は……なんで信じたんだろうな……」 跡部は特に を気にかけているように思える。 無理もない。彼女は見た目以上に中身が幼い。彼女を知っている人間なら、誰だってそうなる。だが、それは信じる理由に足るのか? 人の心など、にはよく分からないことだった。 「嫌われたくは……ないかな」 自分を、自分たちを受け入れてくれた人たち。 氷帝男子テニス部。新しい居場所。 賑やかな同級生に、気の良い先輩たち。 都合が良すぎるとは思う。でも、その都合の良い居場所を、は手放したくなかった。 幼い頃からずっと、父親と兄から身体と心をゴミのように扱われていた。 それは仕方のないことで。自分が良い娘でなかったから、母親は家族を捨てて逃げてしまって。それでも家に置いてくれた父親を、は恨めなかった。 だって彼らは、家族だから。 生きて、生かされて、本当はのことが憎いだろうに。母親を繋ぎとめることができなかったが憎かっただろうに。 生かされるだけ幸せだ。日々流れる悲しいニュースを聴きながらそう思っていた。 それでも痛みは消えなくて、そんな時に出会ったのが だった。 家が嫌いだと言う彼女は、その言葉のわりに身綺麗で、住む世界が違うのだとすぐに理解した。 それでも、優しく微笑みかけてくれる。話しかけてくれる。それが、ただ嬉しかったのだ。 だから懸命に生きた。 意味の無い暴力に晒されていたとに手を差し出した勇気も、 の笑顔に貰ったものだった。 「アタシがここに居るなら、きっと父さんたちも邪魔者の世話をしなくて気が楽になる。 だって、家に縛られることもない。だからさ、少しはここで楽しく生きても……いいかな……」 自分でも似合わない弱音だと思う。 でもこれは、彼女に向けた言葉だから。 「母さん……」 を捨てた、が苦しめてしまった、母親へ。 届かないと、分かっているけれど。 「あ、癒月!!」 「!」 「見つけたC!」 突然聞こえた言葉に、は勢いよく立ち上がる。 「やべっ」 全国区の運動部員が相手だ。普通に逃げても、勝ち目がない。 そう思ったは、迷わず池の飛び石を走り出していた。 「そんな所、走ったら危ねえぞ!」 宍戸が叫ぶ。 その瞬間だった。 「うわっ」 言わんこっちゃない。よりによって、呆れた碧の顔が目に浮かぶ。 は滑らせた足を踏みとどまらせることができず、あっけなく水中へとその身を落としてしまう。 本来なら、足は付く筈、だった。 (やべえ、足、釣って――) 水を吸ったジャージが邪魔だ。 足が言う事をきかない。 そんな状況で、喉には生臭い水が流れ込んでくる。 「癒月ッ」 「俺、先生呼んでくる!」 水の跳ねる音がする。懸命に自分を呼ぶ声がする。 「癒月!」 違う。違うよ。アタシは―― 「癒月、癒月!」 沈みかけた手を、身体を、力強く引かれる。 ぼやけた視界に、艶やかな黒が踊る。 いつか見たような、本当に見たかも分からないくらい遠い、記憶。 母の髪のような、綺麗な黒。 「癒月!」 その名前は嫌いだ。 自分を傷つける男たちと『家族』という枠で縛り付ける名前だから。 母親が捨てた、名前だから。 「ゆ……て、ぶな……」 「!」 「ゆづき、て、よばない……で……ッ」 ぼんやりとまとまらない頭で、自分でも何を言ったのか分からなかった。 ただ、何かがとても嫌で、押しのけるように必死に告げたようだった。 「――?」 何かを言われて、は飲んだ水を吐き出すように咳き込む。 おぼろげな意識は、直後、温かな熱に包まれたまま沈んでいった。 back |